読了。
Amazonの「商品の説明」には、著者の津村記久子氏が「地味ゆる系芥川賞作家」と紹介されていた・・・。
その「地味ゆる系芥川賞作家」のエッセイである。
くよくよマネジメント (著)津村記久子
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本書に、著者が「イケヤ収納片付け体操の歌」というBGMをシャトルバスで聞いて、それが「人生を変える出来事」であったと書いてあった。
著者にとって、その歌の「悩んだら、ポーイ」という部分が衝撃的だったそうだ。
これでなかなか物が捨てられなかった著者が捨てられるようになったそうだ。
年末にイケヤに行ったが、そのようなBGMかかってなかったような・・・シャトルバスの中のみ?
☆ メモ ☆ 太字部分は本書からの引用。赤字の部分は私が特にメモしたいと思った部分。
「公開するための人生の部分」以上に「公開しない人生の部分」に手をかけ、大切に持っていることが、自分自身の不安や虚しさに飲み込まれないためには必要ではないでしょうか。誰に言葉をかけられなくても、自分で自分の願望や平穏さの傾向を観察して、ましな方に心持ちを向けられるということ。(中略)「言わない」という心の保存方法もあります。拠り所や評価を外にばかり求めて、精神的な酸欠状態になるよりは、立ち止まって深呼吸すれば、壁は徐々に消えていくかもしれません。
この部分は、後から引用する「自分の中の子供」に通じるものがあると思う。
ああ、そうだな、ついつい他の人からの良い評価を求めてしまうなあ・・・としみじみ。
仕事でも人間関係でも、勘だけで要領よくこなしている人を見ると、まじめなのって泥臭くてみじめだわ、と思う事もありましたが、(中略)勘と要領頼みでは、いくつになっても基礎が身に付かないということがなんとなくわかってきたからです。
これは日々仕事中に強く思う。勘と要領は大切なものだが、それだけでは正確さに欠けると思う。やっぱり、勉強しないとだめだなー。
子供の時にうまくいかなかったこと、満たされなかったことは、大人になっても意外と尾を引いているものです。(中略)物質的な問題なら、そうやって自分で解決したりもできるのですが、子供の頃の感情的な満たされなさは、いったいどう扱えば良いのでしょうか。
(略)
一時的にあやしてもらうことはできても、自分の中の子供を他人に何とかしてもらうのは、実質的に不可能なことです。その子供は、その人自身にしか見えないし、だいたい誰しも自分の中の子供の相手で手がいっぱいです。(中略)自分の中の子供は、自分で面倒を見るしかないのです。(中略)もう一度子供には戻れない以上、泣き喚く子供、不平不満で爆発しそうな子供は常に自分とともにいて、それはもう仕方のないことです。自分がその子と仲良くしてあげられなければ、いったい誰が仲良くしてあげられるのでしょうか。
いやあ・・・。現在の私のテーマというか、心がけていることがまさしくこれで、「自分で自分のお守りをする」ということだ。
もう、はっきり言って随分大人である。半世紀以上を生きているので、誰も私の世話をしてくれないのである。(そのうち高齢になり、誰かの世話にならざるを得ない時が来るだろうが、それはまだ20年くらい先の話であろう)
「誰しも自分の中の子供の相手で手がいっぱい」の部分がすごく心に響いた。
そうか、そうなんだ。そうかも・・・。
というわけで、自分の中の子供に優しくするために、美味しいものを食べてきた。
私の携帯電話のカメラには、「被写界深度エフェクト」モードという機能が付いており、一眼レフで撮ったような効果を出すことができる。上の写真もそのモードで撮った。
大変楽しい。
先だって、テレビで「霜活」なるものが取り上げられていた。
寒い早朝に霜の写真を撮るという活動である。
その時に活躍するのが、スマートフォンに取り付ける「マクロレンズ」で100円ショップで購入できるらしい。
欲しい・・・。霜活にも興味があるが、このマクロレンズでお花や食べものを撮影しても良いかも。
(こうやって、自分の中の子供を「あやす」と良さそうだ)