読了。
フリーランス校正者の牟田都子氏のエッセイ集。
1つ1つが短めで、電車やバスの中で読むのに最適。
交通公共機関を利用する際に少しずつ読んでいった。
文にあたる (著)牟田都子
私は校正者ではないが、仕事で人の書いた文章に手を入れることがある。
又、仕事で自分の書いた文章を見直す際の参考になるようなことがたくさん書かれていた。
☆☆メモ(太字部分は本書からの引用)
「ためらい傷」から
校正の仕事を始め、「鉛筆の入れどころがわからず真っ白なゲラを戻していた時期」を経て、「黒の時代」というのが訪れたらしい。
それは「てにをはをいじり句読点をつつきまわして少しでも文章を「良く」することが校正だと思っていた」。
なので、「鉛筆の入らないゲラを戻せばちゃんと読んでいないと思われそうで、鉛筆の数が増えるほど仕事をしていると錯覚さえしていました」。
校正の後に、「あと読み」という作業があり、著者は、作業を終えたゲラを師匠のところに持っていき、師匠の見終わったゲラのコピーを見ると、「鉛筆多くが消されていました」とのことだったらしい。
それで、校正に対する考えが変化したようだ。
そして、筆者が師匠のもとを巣立ってから、様々な現場を体験したが、師匠ほど消されたことがないそうだ。
「人の鉛筆を消すのには勇気がいる」、「消した鉛筆は戻ってきません」などと書かれていた。本当に、人の作業を訂正するのは勇気がいるだろうと思う。
私が人の文章に修正を入れる場合、もう、「命がけ」のような気分で入れる。
かなりの見直しをするし、調べもする。
明らかに…、かなり…、これは読む人が勘違いするかもしれない…くらいの場合にしか修正しない。
しかし、実は、少し前に修正を入れなかったことで今でも後悔している仕事があったりする。難しい。
「かんなをかけすぎてはいけない」から
この「かんなをかけたみたいに」という比喩は翻訳家の岸本佐知子氏の言葉のようだ。(私は岸本佐知子氏のエッセイが好きである)
悪文を「かんなをかけたみたいに」きれいな文章に訳してはいけないとのことである。
翻訳家の柴田元幸氏によると、「「少なくとも原文よりわかりにくくなってはいけないというのは大原則」と断ったうえで、「ところどころで立ち止まされるような文章が、いまふうに言う『サクサク読める』訳文になってもいけない」とのことだ。
筆者は十年前を振り返ると「かんなをかけたがる」校正をしていたようだ。てにをはを整えたり、文の前後を入れ替えたりしていたそうだ。
そういう校正を「出過ぎた鉛筆」と呼ぶそうだ。ほお…。
「大きな箇所ほど」から
見出しやタイトルなど目立つところのミスがあるようだ。
「校正の技術とは、突き詰めていくと思い込みや先入観をいかに排するかというところに収斂するのではないでしょうか」
「その「決まっている」「よりによって」「はずがない」が油断を招き、見落としを生む」
ああ、確かにそうかも!!
「やらかした」ことがある。
仕事での文章で、「赤っ恥」をかいたことがある。
通し番号のミスなんかもそうだ。①、②、③の次が⑤とか。
このブログの文章も見直しているつもりであるが、過去の記事をリンクし、読み直してみると誤字の多いこと、多いこと。本当に恥ずかしい。
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12月に「奈良まほろば館」で求めた「イコマ製菓本舗」の「レインボーラムネ」。
入手困難な「幻」のラムネとのことで、出し渋っていたら…賞味期限が今月までだった。
ラムネといえば、甘酸っぱい味。
この「酸っぱい」部分がまろやかなのである。
大好評なのが分かる。
恐らく、また遭遇したら間違いなく求めると思う。